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2010年2月11日 (木)

三世代

野口あや子歌集『くびすじの欠片』を語る会が二週間後となった。
全国から歌人が集まってくる。じき煮えたぎるだろう。
当日の風景を思い浮かべる。

岡井隆先生が80代。私が50代。野口さんが20代だ。
これが結社というものだろう。
この三世代の厚みを思うのである。
それはおそらく短歌が伝統詩であることに関わっている。
それぞれの世代が、この短歌という伝統詩に新しい風を吹き込んできたのだ。

20代の私は、近藤芳美先生の歌会に参加した。
そのころそれを何とも思わなかった。
しかし、今になって、それがかけがえのない場だったと思うのである。
近藤先生はよく若い会員に向かってこう言った。
「君たちの歌は古めかしいね」
その言葉の意味が分かったのもずっと後のことだった。

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2010年2月 6日 (土)

黒瀬珂瀾『空庭』を語り合う会

今日は、『空庭』の批評会。
盛会でした。
私の発言の要旨を記しておきます。

『空庭』で、秀歌一首を選ぶとすると次の歌である。

 朝に飲む東京の水臭ふとき悲しみは噴きいづる蜻蛉  黒瀬珂瀾

「遠い水」より。春日井建への挽歌である。
訃報を受け、師へ思いを馳せる。
その遠さは、名古屋という距離ばかりではない。
澄んだ朝の水は、春日井建を象徴していよう。
私は臭い東京の水を飲んでいる。それは自らの境遇や状況を象徴している。
あまりに師は遠いのだ。それが哀しいのである。
蜻蛉の様は、そういう哀しみが解きはなたれてゆく美しい幻影である。

 *いま付記すれば、「悲しみは噴き・いづる蜻蛉」という前衛短歌的句跨りを含め、完成度の高い作品である。

(パネラーの荻原裕幸さんの「主要作/代表作はどれなのだろう」という発言を受けて)
代表作は、作者がつくるのではない。代表作は、読者がつくるものである。
秀歌、代表作、愛唱歌などいろいろな言い方があり微妙に違うのだが、いま、秀歌を生み出す共通の基盤がなくなったのではないか。

パネラーの永井祐さんは「一番好きな歌」として

 日本はアニメ、ゲームとパソコンと、あとの少しが平山郁夫   黒瀬珂瀾

を挙げた。
私と永井君が一晩議論しても平行線だろう。
かつてあった歌の価値判断のコンセンサスが崩壊している。
これでは、代表歌を押し上げてゆくことは困難なのである。

 *いま付記すれば「一番好きな歌」というのも、秀歌、代表作、愛唱歌とは違ったニュアンスである。秀歌=一番好きな歌とならないことが、一番問題なのではないか。
 秀歌の基盤が崩壊したことが、作者側にフィードバックされることは言うまでもない。それは歌集編集(選歌)に反映するのだ。

加藤治郎は、医者から一日2リットル水を飲むように言われている。
血がドロドロなのである。
黒瀬珂瀾『空庭』は、「知がドロドロ」なのではないか。
短歌形式は本来整流器として機能すべきもの。余分なドロドロを洗い流してくれる。

知を洗い流して、真っさらな心・魂で世界に向かうべきではないか。
ゼロベースで、世界を掴み取ってほしい。

『空庭』は、いい歌集である。
(なぜか会場から笑い。「でもいい人よ」的に受けとめられたのかな)

黒瀬珂瀾は、10年、20年に1人の逸材。
頑張ってください。

 *付記 毎日新聞の今年(2009年)の歌集5冊に、私は『空庭』を推している。

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