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2006年9月 5日 (火)

倒れる自転車の問題

 自転車がいまやはらかく倒れたり対人地雷を敷きつめし地に

               大辻隆弘「未来」20067月号

「未来」の夏の大会2日めの批評会で取り上げられた歌である。読み落としていた歌だ。
ちょうど、大会1日めのシンポジウムで黒瀬珂瀾君が本歌取りの問題を鋭く論考していただけに、あっ、と思った。

この歌は、どう評価すべきか。

言うまでもなく、

  風いでて波止の自転車倒れゆけりかなたまばゆき速吸の海

               高野公彦『水木』
                   *ルビ 波止=はと 速吸=はやすひ

を踏まえている。大辻君がこの歌を知らぬはずがない。しかし、読者はそうとは限らないのだ。

上句の自転車が倒れるというイメージの引用と捉えたい。高野さんの作品を踏まえるなら、自転車を、茫洋とした眩い海の景から、対人地雷を敷きつめた絶望の地に移し替えたと言える。その暗転に批評性がある。ただし、対人地雷が埋められた地に自転車とは、余りにアンマッチだ。現実感が乏しい。計算違いではないか。

本歌は時代的に近すぎる。
パクリというには高名な歌である。しかし、シンポジウムでは、時間の関係か、この問題について指摘はなかった。これは批評側の問題となってくる。引用を前提に成り立っている歌に、その言及がなければ、作者は居心地の悪い思いをするのではないか。

しかし、一番の問題は、本歌の方が数段いい歌だということである。その点、作者の意図が分からない。
本歌に比べ、大辻君の歌は、上句が冗漫である。あらためて「風いでて波止の自転車倒れゆけり」の濃密さが思われる。無論、「倒れゆけり」の急迫調が巧いのである。

本歌取りに、様々な規準があるが、本歌に拮抗する歌であることが大前提ではないか。


本歌取り、引用の問題は難しい。読者の受容レベルが人によって、時代によって、変動するからだ。
それをどう想定するか。これは、もう、雑誌に発表して読者の反応を見るしかないだろう。雑誌はそういう場であってよい。
オリジナルの認知度、その引用の評価等々、できるだけ多くの読者の目に触れた方がよい。1人の読者の知識には限度があるからだ。

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コメント

そういわれてみて、初めて気づきました。
迂闊なことです。

「水の回廊」にコメントをかきました。
お読みください。

投稿: 大辻隆弘 | 2006年9月 6日 (水) 00時39分

大変ごぶさたしています。遠い立場からは、「自転車がたおれる」というモチーフが共通しているだけで、本歌に対するオマージュがまったく感じられなかったので、これは本歌取りとは思いませんでした。高野作品のポイントは、「倒れ行けり」という現在進行形の、時間がスローモーションのように止まった今ここの特異な永遠の感覚にあるのに対し、大辻作品のポイントは、倒れたら爆発するという未来予想の恐怖におかれているのであり、今ここはきわめて空虚です。その空虚な不安な感じが、戦争に向かうかもしれないという現代日本の不安の隠喩になっていることは容易に読み解けることですね。大辻作品のほうが高野作品よりも心理的にも作品のつくりにおいてもアンバランスだ。そのアンバランスさの中に、ある現代性をみることも、まあ大辻作品の擁護としては可能かもしれませんね…。以上、ちょっとした感想でした。

投稿: 田中庸介 | 2006年9月 6日 (水) 01時20分

加藤さんのblogを読んで、
あらためて高野さんのこの作品、若々しくてきらきらしていいなあ、と思いました。


短歌読者という立場では、この2作品をあらためて並べて見せていただいても、大辻さんの歌を高野さんの本歌取りとは思えなかったし、類想とも思えませんでした。
たぶんそう確信したのは、この場で加藤さんが2作品を並べたから、相違点が明らかになったのだと思います。それは結果として良きことのように思います。

読者として短歌を記憶するとき、言葉としてきっちり覚えているものと、ビジュアルイメージとして記憶しているものがあります。イメージとして記憶しているものについては、自分の頭の中で新しいイメージを解釈として加えているときがあります。たとえば、この例でいうと、自転車の倒れてゆく速度とか。そのときの光の具合だとか。
あ、似てる、と思ってあとで確かめてみると、似ているのは実は自分が付加したイメージということがあります。
2つの作品を比べて読んでみたとき、仮に似たようなビジュアルイメージを多くの読者が連想したてしまった場合には、類想といわれても仕方ないのだろうと思います。


2、3年前まで、短歌の入門者であった立場からいいますと
こういった創造のルールは入門者に対してもあいまいにしない方がいいと思います。
入門者に対して基本となるガイドラインを確認してみせないというのは、本歌取りと類想の問題とか、剽窃の問題とかの永遠ループをつくることになろうかと思います。

短歌はほかの文芸にくらべて、入門間もなくても、作品が新鮮でまとまっていれば、新人としてデビューしてしまうことの多い分野に思われます。今はまだ大丈夫だよ、と指導者からいわれている入門者が、来月どこかで新人賞を受賞するかもしれない。編集部のノーチェックで総合誌に作品掲載があるかもしれない。そこでその新人が急に自分に厳しくなれるかというと、なれませんよね。。。
そんなチェックは先天的な性格があるか、あるいは躾けとして身に付いてないと出来ないことのようです。
表現の既得権を命がけで守ろうする既成作家の前に出て、そういうことが身についていなければ、ひとたまりもなくつぶれてゆくでしょう。
他の作家から類想や剽窃といった指摘を受けたときに、自分のガイドラインはこうである、と相手を説得できるような新人を、入門の段階から育ててほしいと思います。

最後に、自分でも作品をつくっている立場としていいますと
今回のメッセージであらためて学んだのは

先行作品を厳しくチェックしろ。
ボーダーな作品は出すな。
本歌取りなら本歌が分かるようにしておけ。
その時間が取れないんなら、発表するな
指摘してくれる仲間を大切にしろ

でした。

基本的に現代文学は文体も含めてオリジナリティ最優先。というのは
ことあるごとに胆に銘じたい。

投稿: しまなおみ | 2006年9月 7日 (木) 12時28分

当の大辻氏ご本人も本歌取りではないと明言されている。ただ、当該歌には難癖をつけられるような隙があったのは確かだと認めているに過ぎない。
また、多くの諸氏が異口同音に貴殿の本歌取りとの評に異を唱えている。
公の場で選を行い多大な影響力を持たれる貴殿として、御自身の発言の意図につき、しっかりと弁明を試みるが賢明と思う所存である。何を期してあのような短歌評を物したものか、是非詳しく伺ってみたいところである。
島なおみ女史のコメントには賛意を表したい。 龍之信 拝

投稿: 西園寺 | 2006年9月 8日 (金) 08時40分

みなさん

コメント、ありがとうございました。

私の考えているより、全体的に読者の意識として(ネット環境にいる人々に限定されますが)、引用の自由度は高いように思いました。

定家の時代は、引用してもよい分量は二句+三・四字くらいまでとか、明確な指針がありました。
現代も、そういうガイドが求められるのか。
では、十字程度なら本当によいのか。

考えは尽きません。

じっくり再考してみたいと思っています。

投稿: 加藤治郎 | 2006年9月10日 (日) 20時18分

加藤氏のコメントには、すっかりお茶を濁されたとの感を持ちました。
大辻氏本人をはじめとして、大方の方が本歌取りどころか引用ですらなかったとの印象を持ったと小生は判じております。
しかし、議論に値する大変重要な課題であると思われますので、正しい例示に基づいてどこかできちんと取り上げられることが望ましいと思います。
しまなおみ女史が指摘されていた5つのポイントは、すべての歌人が肝に銘じるべき大変良い御指摘だったと思います。

投稿: 西園寺 | 2006年9月11日 (月) 08時43分

 並木夏也です。真夜中に今晩は。未来の大会ではお久しぶりでした。
 事情でネットからしばらく離れていたら、そのあいだにこんなにコメントが集まっているとは、ちょっとびっくしました。いままでにこの数のコメントはこのブログにはなかったですから。
 ところで、未来の大会での黒瀬さんの発表もあったりしたので、治郎さんの書いていらっしゃることの中には、なかなか未来の大会に出席なさっていなかったひとには分かりにくいところもあるこの問題ですが、わたしはとりあえずそれをちょっと横においておくことにしまして、しまなおみさんの書いていらっしゃることについての疑問があったので、話しが収束したあとで申し訳ありませんが、ちょっとした「質問」として書かせてもらいます。

 しまさんがこのブログのわたしのコメントを読んでいらっしゃったら是非とも回答願いたいのですが、しまさんの書かれていらっしゃる「今回のメッセージであらためて学んだ」項の中の

・本歌取りなら本歌が分かるようにしておけ。

 というのは、具体的にどのような形を取るようにしようとなさっているのでしょうか?
 わたしが真っ先に思いついたのは、岡井隆の歌集『大洪水の前の晴天』にある「目にはさやかに――本歌取りのための試作」の一連なのですが(「未来」の岡井選歌欄の者ですので、思い付きがそのままで申し訳ない)、しまさんが、この歌集を読んでいらっしゃるかどうかは分かりませんが、しまさんご自身が、考えていらっしゃる「・本歌取りなら本歌が分かるようにしておけ。」を具体的に表すには、どのような形を取るのですか?
 わたしのこのコメントを読んでくださったら、ちょっとお考えを教えていただきたいのですが。

 それと、わたしも高野さんの歌と大辻さんの歌は、大辻さんにあんまり「本歌取り」という意図はなかったかと思うのですが...。大辻さんが「水の回廊」で書かれていらっしゃることもありますので、大辻さんのご意見を聞き入れますが、かなり大辻さんには「謙遜」が入っていますように感じましたね。ただ、大辻さんの歌は、「あまりに大辻さんの歌らしい歌過ぎる」感じもしますけれど。

 本歌取りって、しまさんの言うように「本歌取りなら本歌が分かるようにしておけ。 」を考慮しておかないと、何かと読者側からの批評などで議論や問題が出るのでしょうけれど、あからさまに分かるようにしておいた場合、それだとちょっと醒めてしまうというか、読者の側に面白味がなくなってしまうところがありますね。
 だから、ちょっとした「ひねり」を入れないと、本歌に負けてしまうんですよねえ。

投稿: 並木夏也 | 2006年9月21日 (木) 04時03分

>「塔短歌会」会員の西園寺様へ。
このブログの加藤治郎さんへの反論につき、じつにゆっくりと考えさせられながら、「本歌取り」についての考えを、「未来」の大会のパネラーの皆さんのご意見を思い返していました。そして、それをここ数日でわたしなりにまとめました。もちろん、西園寺さんは「未来」の大会での事は知らないこととは思われますが、元「中部短歌」会員で、現在は「未来」の会員である黒瀬珂瀾さんが「未来」の大会にて、現在における「本歌取り」と、「引用作品」としての成り立ちについての考察が、わたしの脳裏ににインプットされている状態でしす。――しかしながら、西園寺さんは、その黒瀬珂瀾さんのシンポジウムでの発言を、きっとご存じないかと思いますが。
 ところで西園寺さんがこの加藤治郎さんのブログのコメントに書かれたコメントに対し、わたしは多くの疑問を持ち増した。
 それは西園寺さんの発言が、殆どと言っていいほど加藤治郎さんの認識への「反対意見」と、それと西園寺さんが、しまなおみさんのご意見を尊重する形で評価なさっていて、加藤治郎さんの作品そのものには触れられていないということです。つまりは、西園寺さんご自身の、「本本歌取り」に対してのご自身のご意見をネット上でいまだに読んでいないのです。
 西園寺さんは加藤治郎さんに対して「おちゃ濁した意見」や、「多くの諸氏が異口同音に貴殿の本歌取りとの評に異を唱えている。」、「しまなおみ女史が指摘されていた5つのポイントは、すべての歌人が肝に銘じるべき大変良い御指摘だったと思います。」と、周囲の歌人さんの指摘を抜粋して、それらを改めて西園寺さんが繰り返し述べているだけのように思われます。(このブログでの西園寺さんのご意見を呼んだ限りでは、ですが)
 わたしは西園寺さんご自身が「本歌取り」についての意見をまったく述べられていないところにひっっかりを感じ、これは是非ともこれは、西園寺さん、ご自身が思われている「本歌取り」についての、西園寺さんのご意見を伺いたく思っているところです。
 この記事に対する西園寺さんの「本歌取りに」たいして思うところがあれば、ほかの周囲の人の意見だけでなく、西園寺さんご本人、自らが思う「本歌取り」のご意見の頂きたく思っております。西園寺さんが「本歌取り」に対して、ご自身の意見やご発言があれば、是非とも伺いたく存じます。
 是非とも、そのあたりの西園寺さんのご意見を伺いたく思うところなので、このわたしのコメントを読んでいらっしゃったら、他の方々の意見に便乗するが如く、それらの意見に西園寺さんが鞍乗りするばかりではなく、西園寺さんご自身の「本歌取り」についてのご意見をいただけませんでしょうか。
 よろしくお願いいたします。

投稿: 並木夏也 | 2006年9月24日 (日) 00時52分

並木夏也様
はじめまして。西園寺と申します。
最初にお断りしておきたいのですが、結社「塔」と小生は、単に半年間の期限付きで会費を払い購読をさせていただいているだけの関係であり、余り結びつけて考えないで頂きたい。小生今のところ購読を更新するかどうかも決めていないし、結社への帰属意識など微塵も無い。塔がどういうところで、どんな方々が運営されているのかを、今勉強させていただいているところに過ぎません。
最近は、塔の吉川氏以外にも他の結社の歌人で惹かれる方もちらほら目に付いたりしているので、他の結社についても購読を考えたいと思っているし、「未来」については、近々のうちに是非一度会員になろうと思っています。こちらでは出詠というものにも挑戦させていただくかも知れない。

小生は、加藤氏の意見に異論が多い様なので、もう少し詳しく加藤氏の発言の論旨をお伺いしたいと書いただけに過ぎない。その後、氏は多くの異論があることを見つめつつも、明確な考えは示されなかった。ただそれだけのことなのに、貴殿が小生に対して何故に唐突に斯様な御質問に及んだものか甚だ奇異に感じております。
実は最近小生のブログにおいても入れ替わり立ち代り執拗に絡んで来る方がいて、甚だ迷惑してうんざりさせられている次第。それですっかり疑心暗鬼になっているのかも知れないが、思わずその続きの様な印象を持ちました。。
いずれにしてもこちらでそのような話題を展開するのは適当ではないと思いますので。

投稿: 西園寺 | 2006年9月24日 (日) 15時03分

 なるほど。わかりました。わたしは西園寺さんがどのような形で「塔」に所属していらっしゃるのかを知らなかったので、上記のような質問をいたしました。ただ、なかなか「半年間の期限付き購読だけの会員」というのは、あまり一般に通用せず、一般的には所属会員としてみられることが多いようです。
 西園寺さんの言う「勉強」ということはわかりましたが、ここでの西園寺さんの書き込みについては、あまり加藤治郎さんもご納得できないであろう「横からのひと言」のように私には思えましたので、西園寺さんに、ご自身がどのようなお考えを持っていらっしゃって発言しておられるのか、伺ったところです。
 もう少し、自身のお考えを述べた上での発言が好ましいかと思います。

投稿: 並木夏也 | 2006年9月24日 (日) 15時55分

追記
「未来」も是非、手にとってみてください。

投稿: 並木夏也 | 2006年9月24日 (日) 16時06分

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引用、本歌取りの問題として。 治郎さんのブログから。   自転車がいまやはらか [続きを読む]

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