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2005年7月30日 (土)

残したい秀歌 (NHK短歌)

亡き祖母の時計はめれば秒針は雪野をあゆむごとく動けり

栗木京子『夏のうしろ』

  おじいさんの古時計という歌がありましたが、こちらは、おばあさんの腕時計ですね。時計をはめたら、動き出したんだというニュアンスがあるように思います。あるいは秒針の動きに気づいたということでしょう。チッチッチッとゆっくり動いている。お祖母さんの時間がふと、今の自分の時間に重なったんですね。

唇をすべらせてふくハモニカのあるときは剃刀の香りして

加藤治郎『ニュー・エクリプス』

今この現在が

悪夢に変わる。

春の夜にわが思ふなりわかき日のからくれなゐや悲しかりける

前川佐美雄『大和』

  韻律の強さが印象に残ります。
  五行に表記されると、よくわかりますが、わが思ふ、わかき、の「わ」、からくれなゐ、かなし、の「か」ですね。この畳みかける音に迫力があります。
  昭和十四年、三十代半ばの作品。この「わかき日」は、二十代の日々、まだ、生々しいんですね。それを「からくれなゐ」という濃い紅色、鮮烈な色彩に託した。それは、シュールレアリスムという短歌革新の痛切な日々であった。

戦争のたびに砂鉄をしたたらす暗き乳房のために祈るも

塚本邦雄『水葬物語』

 一九五一年、昭和二十六年に刊行された『水葬物語』に収録。時代ということでは、第二次世界大戦と深く関わりながら普遍的な戦争イメージに到達しています。滴る砂鉄が死を暗示する。美しくて陰惨な像ですね。自らを滅ぼす生命の比喩として乳房が危うい美を湛えています。
 塚本邦雄さんは、つい先頃、二〇〇五年の六月に亡くなられました。戦後の前衛短歌をリードした歌人です。〈反写実の鬼〉、盟友岡井隆さんはそう呼びました。ありのままの私の日々の思いを歌にするという写実の立場にNOをつきつけたわけです。
「もともと短歌という定型短詩に、幻を見る以外の何の使命があろう」と高らかに宣言しました。メタファーの導入、韻律の革新など様々な功績がありますが、この「幻を見る」が塚本短歌のコアだと思います。

空が美しいだけでも生きてゐられると子に言ひし日ありき子の在りし日に

五島美代子『母の歌集』

 長女は二十三歳で亡くなりました。大学生だった。歌はこの厳粛な事実と切り離せません。かつて子どもに言った言葉を思い出している。空が美しいだけでも生きていられる、その言葉を今は自分に向けているのです。

食卓のむかうは若き妻の川ふしぎな魚の釣り上げらるる

岡井隆『E/T』

  二〇〇一年刊行。『水葬物語』からちょうど五十年後です。
  食卓の向こうという、届きそうで届かない所に、若い妻の世界がある。ふしぎな魚って何でしょう。ありふれた日常の中で、なにかを見つけて喜んでいるのでしょう。「らるる」という語感がよく、魚がぴちぴち跳ねている感じも出ている。夫である作者には、その妻の世界がうまくつかめない。それを「ふしぎな魚」というメタファーに託したんですね。淡い距離を感じ、それでいて、そういう妻の姿をやすらかに見守っているわけです。

  与謝野晶子の『みだれ髪』、あるいは正岡子規以来、二十世紀の短歌は〈私〉を軸に動いてきた。その中で歌人たちは、自己肯定や自己否定の連鎖を断ち切って、どう作品を広い世界に解放できるか、考えた。もはや、前衛短歌のように架空の〈私〉を歌うことでは満足できない。
  極めて、私に近づきながら、私を消していくという方法があるのではないか。それは多くの読者の、私になりうるのではないか。
  これが二十一世紀の初めに岡井隆が提示したビジョンである。

 秀歌とは、歌の究極の姿である。それを究めることが歌人の使命であった。
  近・現代短歌は、秀歌を超える価値があるという地点から始まった。それは人間の表現ということである。歌を透してその作者の生命を見ること、現実に生きて居る人間自体をそのままに打出し得る歌、が求められた。韻律がいい、美しいイメージが浮かぶ、といった一首の内側の閉じられた世界では、秀歌は語り得ないということである。
  いま、人間から、さらに時代、社会へと秀歌の軸は動いている。時代に深く関わり、また一つの時代の精神史を刻んだ歌が秀歌である。塚本邦雄の戦争という主題、そして「幻を見る」というビジョン、岡井隆の「私を消す」というモチーフ、それぞれ時代と深くコミットしている。

(加藤ノートより)

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2005年7月24日 (日)

現実

現実の方が面白いんだ。 

島田修三

後藤由紀恵『冷えゆく耳』の批評会にて。島田さんが言うには、後藤さんが祖母の介護の歌を詠み始めたのは、この<現実を歌え>という島田さんの強烈な指針があったためだという。 一人の歌人が誰に師事するか、それは決定的なことなのである。

 ぬぐのぬぐの呪文のように唱えては紙パンツぬがせる朝の儀式ぞ

 海を産んだような顔をして祖母は眠る 春の真昼を晩年として

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2005年7月21日 (木)

残したい秀歌

ETVNHK短歌」で、栗木京子さんと対談いたします。

テーマは「残したい秀歌」です。

前川佐美雄、塚本邦雄、五島美代子、岡井隆の歌をめぐって語り合います。

放映は、7月30日(土) 朝7時30分

再放送は、8月4日(木) 朝5時30分

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ぜひご覧ください。

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2005年7月 3日 (日)

ニューウェーブ短歌コミュニケーション

一部は、荻原、穂村、加藤の鼎談。塚本邦雄を語った。晩年、塚本邦雄がどういう歌境に達したのか、そんなことを漠然とかんがえて臨んだ。三人それぞれの塚本邦雄の出会いから、やや私的な体験を語り合った。

二部は、新鋭歌人による紅白歌合わせ。判者を務めたがこれは初めてのこと。歌合わせも、へるめす歌会以来のことである。歌評に重きを置き、捌いた。

第三回歌葉新人賞授賞式。しんくわさんの「卓球短歌カットマン」の登場は鮮やかだった。歌集が待たれる。

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2005年7月 2日 (土)

プロであるということ

この場合、プロであるということは、 短歌を、短歌以外のすべての価値より優先してみずからの実人生の上に位置づける、そのような生き方の選択のことなのである。     

近藤芳美

『[短歌と人生]語録 作歌机辺私記』 (砂子屋書房)

  プロとは、独自の詩歌世界を形成している、あるいは詩歌に精通しているといった範疇で語られるべきではない。ましてや金銭的報酬に換算する次元のことではない。

プロであるとは、歌人であるとは、生き方の問題なのである。改めて自らの作歌の原点を厳しく問われた思いである。

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